何も考えてない話

ウィトゲンシュタインという人がいます。こんな言葉を残したそうです。

「語りえぬものには沈黙せねばならない」

なるほど。それは本当にそう。前から思ってたけど、語りえぬものには沈黙せねばならないよね。例えば、ほら、あれについてとか。

 

 

 

 

語りえぬものには沈黙せねばならないからね。あれ、がなんだかわからない以上沈黙するしかないのです。

もちろん、そんな意味でウィトゲンシュタインがこの言葉を残したんじゃないでしょう。調べればその本来の意味を知ることは可能だし、それについて長々と書き連ねることもできるでしょう。でも、ここではそういったことはしません。調べた先で出てきた文章を読んだ方が早い。

なぜウィトゲンシュタインなんて言い出したのか?実はそこには深いわけがあったら良かったのに。何も考えてない。「語りえぬものには沈黙せねばならない」って言葉がふと浮かんだから書いただけ。

しかし、全く関係がないわけではないのです。たとえば、このブログの続きとか。何も考えてない。何も考えてないということは、語りえない。語りえぬものには?

 

 

 

 

 

 

 

そう沈黙せねばならないのです。破っちゃってるけどね。沈黙。

沈黙は金、雄弁は銀という言葉がありますね。これは日本の言葉、だと思ったけどそんなことなかった。イギリスだそうです。しゃべるのも良いけど、黙るのを知ることも大事だぞ、そんな意味ですね。さて、語りえぬものには沈黙せねばならない。沈黙は金雄弁は銀。ということは、語りえぬものは金でなくてはならない?

何を言ってるのかわからなくなってきたところで、こんな言葉を引用しましょう。

なぜウィトゲンシュタインなんて言い出したのか?実はそこには深いわけがあったら良かったのに。何も考えてない。

さっき書いた文章だね。どんどん意味がわからなくなる。でもそれでいいのです。タイトルに「何も考えてない話」って書いてるので。何も考えてないのにだらだらと文章を書こうと思い立ってしまったこの私を許してくれ。故郷で妹が結婚式を挙げるのだ。友人を身代わりに差し出すから、三日だけ待って。

 

何も考えていない、何もないところから文章を生み出すにはどうしたら良いのだろうか。何かしらのテーマで持って書き出せば、それは文章ができるでしょうが、今回は何も考えてないのでなくてはならない。原初の、塵一つ存在しなかった空間上に「ゆらぎ」から物質と反物質が生まれたことを考えると、句読点一つ存在しなかった真っ白な画面上に文章を生み出すにはやはり「ゆらぎ」が必要なのではないか。「ゆらぎ」から文章を生み出すことは確かに可能かもしれないが、問題としては物質に対して反物質が生まれるがごとく、文章に対して反文章が生まれるに違いない、ということだ。

しかし、また一つの疑問が生まれる。この、本当にしょうもない文章の羅列は、すでに反文章なのではないか?1000字近く読んできて、全く、何一つ得るものがない。まさしく反文章なのではないか。でもこれが反文章だからといってがっかりすることはない。反文章が生まれたということはどこかに文章も生まれているはずだからだ。ちなみに反文章と文章がぶつかり合うと消滅する。

ところで、反文章を読んだことはありますか?初めてだとしたら貴重な体験です。いやもしかすると、そもそも反文章自体が初めての存在なのかもしれない。今まで反文章などというものの存在を証明することはできなかった。何故なら文章とぶつかり合うと消えてしまうからです。大抵の場合、いまやそこら中に文章があふれていますから、我々が読む前に反文章は文章とぶつかって消えてしまうのです。消える前の反文章をこうして読めるというのは実に貴重な体験ですよきっと。これも直に消えてしまうかもしれない。

何しろ、これの下に続いている記事は、少なくともこれよりはましな、少なくとも文章だ。反文章じゃない。ということは、文章にぶつかった下の部分から、この反文章も消えていってしまうに違いない。「違いない」、というのは、実際に反文章が消えるところをみたことがあるわけじゃないからです。理論上は消えるんだけど、直接この目で見るまではなかなか信じられない。さぁそろそろ文章とぶつかる頃合いじゃないだろうか。これでもしぶつかっても消えないとなれば、「ゆらぎ」から文章と反文章が生まれるという理論も、反文章と文章がぶつかると消えるという理論も全て間違いだったのかもしれない。緊張の瞬間だ。いつだって理論は実験によって覆されうる。反文章の理論が証明されればもしかしたらノーベル賞だってもら